おもうこと2

続編です。ひとつ前の記事「おもうこと1」を先にお読みください。

飲食業は人に「正」の心を思いおこしてもらう尊い職業です。


 「正」の思いも、「負」の思いも、どちらの思いも、その思いが強いほど、回りに影響力を与えます。飲食店では、モノと同じくらいヒトがお客様に影響力を持っています。サービス業ですので。

そこに、もし、強烈な後ろ向きな人間が入ってくるとどうなるか。
その後ろ向きな思いは、随所で言葉にあらわされ、またたく間に店全体に伝播していきます。そうなると当然店全体が後ろ向きな空気に包まれ、居心地の悪い店になります。
飲食店は、お客様に、飲食を通じて、日常のストレスから、開放され、友人との語らいなどで、リラックスしてもらうために存在しています。
後ろ向きな態度、ひがみや妬み、苦しみなどの否定的な雰囲気の店には誰も行きたくはありません
そうなると、お客様が離れていきます。すると売上が下がります。そうなると、更に店が暗くなります。売上不振の要因を互いになすりつけあい、人間関係がよりすさんでいきます。そして更に客離れが起こります。これがネガティブスパイラルです。

 先ほどふれたように、現代は「負」の情報に溢れています。しかし、本来人間は「正」のほうを望んでいるのです。そういう意味では、「正」に飢えているといえます。ですから、親切にされると嬉しいし、笑顔で微笑みかけられると嬉しいし、真心のこもった料理を食べると心が豊かになるのです。


 飲食業はじめサービス業とは、人々に「正」の心を提供し、「正」の思いを思い起こしてもらう尊い職業なのです。ですから、我々は、お客様より、誰よりも「正」の心を宿し、「正」の表現をなすのです。そのためには、がんばって生活の瞬間瞬間を「正」に生きる努力をしなくてはなりません。

「与えるものには更に与えられる」という不変の真理
 自らに「正」の心を植え、「正」の表現を行い、「正」を与えることには不断の努力が必要ですが、そのことで得られる収穫ははかりしれません。
キリストが唱えた「与えるものにはさらに与えられる」という真理のとおり、「正」を多く提供した人には、多くの「正」=発展・成功が与えられます。
何をばかなことをと思うかもしれませんが、それは、たとえ神様を登場させなくとも説明がつく話なのです。
 「正」の心を植え、「正」の表現を行い、「正」を与えることに不断の努力をしていれば、もちろん、表現が「正」になります。
 いつも笑顔で、いつも人が喜ぶような表現をして、物ごとを前向きにとらえ、積極的に人が喜ぶような仕事をしていれば、、
 まず、お客さんが増えます。人は「正」に飢えてますから。「正」をたらふく提供してくれる店に足を運んでくれます。そうすると、お客さんが笑顔で「ありがとう」と言ってくれます。そうすると、自分もやりがいがでます。そしてもっと喜んでもらえるような表現を研究します。笑顔をより美しくしたり、料理をおいしくする研究をしたり。。そうするとまたお客さんが増えます。

 そんな積極的で、笑顔が素敵で、料理がうまくて、業績をあげれて、お客さんに愛されている人は、大事にされます。

大事にするというのは、囲って温存することではありません。もっと多くの人や組織にその人のよさを表現してもらって、もっと多くの人や組織に影響をあたえるような仕事をやってもらうことです
なので、活躍の機会が増えていきます。そうなると、どうなるか? わかりますよね。

この話自体を「負」にとらえてませんか?
 「そんなことしたって相手に伝わらないんじゃない?」とか「うまく利用されちゃて結局自分は損するんじゃない?」とか、「そんなの無理に決まっているよ」とか「私一人ががんばったって無理だよ」とか「ほかの店でならできるけど」とか「うちのお客さんには伝わらないよ」とか「もっとギャラくれたらできるよ」とか「もう少し時間の余裕があればできるよ」とか、、、
 その反応が、「負」の反応です。しらず知らずに今まで刷り込まれ、プログラムされてきた「負」のソフトウェアです。このソフトは相当長い時間をかけてプログラムされてきましたから、簡単には「正」にかわりません。「正」になったと思ったら、ウィルスのように「負」の攻撃を受けてしまいます。


 対処するにはその時に間髪いれずに「正」にもどしていくことの繰り返ししかないのです。そしてこれを繰り返し続けているうちに、どこか大元のプログラムが変換されて、ドミノのようにパタパタパタパタと「正」のプログラムに書き換えられていきます。
そうなったら、強いものです。いつも「正」でいることのできる人間に生まれ変わります。

自分で努力するほかにない。
 自分にプログラムされているソフトウェアですから、これを変換するのは、自分で努力するしかありません。誰かにやってもらうわけにはいきません。
そのためには、まず決意をすることです。「正」でいきると。
そしたら、それを貫くことです。そして「負」がでてきたら、その心の原因を探るのです。そして、自分の心を「正」に転換するのです。

「負」がでてきた時がチャンスです。

「疲れてたから」とか「たまたま」とかいって、ごまかしていたら、いつまでもプログラムは変わりません。きちんと自分からでた「負」を直視し、そのときの心情、コンディションを確認し、次ぎに同様なことが起きたときに「正」に転換することを誓うのです。

最後に松井秀喜選手の母校星陵高校の部室に掲げられていた言葉を紹介します。
ヤンキースの松井選手の恩師山下監督の言葉

心が変われば行動が変わる
行動が変われば習慣が変わる
習慣が変われば人格が変わる
人格が変われば運命が変わる

すばらしい人生のために。がんばりましょう!

 

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おもうこと1

ということで、久しぶりの裏カフェです。

ここでは、私の個人的な思いや信条などを綴っております。いわゆる自己啓発系なブログです。

先日、KCPのリーダー研修用に作成したコラムを見ていましたら、こういう時代だからこそ、こういうことをココロして生活せんといかんなーとしみじみと思ったので、記事を二回にわけてご紹介させていただきます。

思うこと。

「思うことは実現する。まず思うことが成功の秘訣」と古今東西の偉人の書籍の中にあります。
 もちろん、ただ思うだけで成功するという話ではありません。成功するには、それに向かって努力を重ねていかなければなりません。しかし、まず、思わなくては努力すらできないということです。

 そういう意味では、「思う」ということは、植物の芽と似ています。まず、芽をだし、それに努力という茎を伸ばして、成功という花を咲かせます。芽がなくては、花どころか、茎すら伸ばせないということです。それだけ、思うということが大事なのです。
 加えて大事なのは、その芽の方向です。芽が横に向いていれば、茎も横に伸びていく。芽が上を向いていれば、上に伸びていきます。芽の向きは、思う方向です。思う方向が「正」の方向ならば、努力したした分「正」の方向に、思う方向が「負」の方向ならば、努力すればするほど「負」の方向に伸びていきます。
 「正」とは、「前向き」「成功」「発展」
 「負」とは、「後ろ向き」「失敗」「後退」

を意味します。

つまり、「する」(行動や努力)前に、まず思いの方向が正しくないと、悪い方向に物事がすすんでいき、悪い結果を招いてしまうということです。
 それでは、「する」前に、思いを正しい方向に向けるには、どうしたらよいでしょうか。
人間はいかなるときも、何かをしていますので、「する前」がいつなのかはわかりません。
つまり、「する前」だけ、思いを正しい方向に向けることはできないわけです。
ということは、「常に」思いを「正」の方向(前向き、成功、発展)に向けるようにするしかないのです。

知らぬ間に注目していることが想念に刷り込まれていく。
常に「正」の方向に心をむけたいのですが、「負」の方向に心が向いてしまっている人が実に多いのが現実です。
なぜでしょうか? これは残念ながらマスメディアの影響が大きいといわれています。マスメディアは人から注目されてナンボの商売です。人から注目されるためには、「正」の話より「負」の話のほうが豪華で派手に見えるのです。「真実を伝える」という正義感のある言葉でデコレートされた「負」の話題が、TVで、雑誌で、新聞で年がら年中発信されています。
 だまし絵にみられるように、注目するほうのことを人間は認識して記憶していきますので、知らず知らずのうち、社会の「負」の部分に注目してしまい、そのたびに「負」のものへの認識や関心を深めてしまい、「負」のフィルターを通して世の中をみるクセを身につけてしまっているのです。

 ですから、相当に訓練して世の中の「正」を見る努力をし続けないと常に「正」を見て、思うということは難しい時代になっているのです。

 リーダーが「負」意識から抜け出ないとその組織は「負」に向って進むことになります。それでは、組織は減退してしまい、破滅の道を歩むことになり、リーダーの責任を果たすことができません。
ですからリーダーになったからには、必死で「正」をみて、「正」を表現し、組織を「正」に導いていかなければなりません。

 自分の「負」の原因と、「負」が出やすいときを知る。
「思う」ことと「言う」ことの関係は、「果物」と「ジュース」の関係と同じです。
オレンジを絞るとオレンジジュースがでます。グレープフルーツジュースは出ません。これと同じで、「正」(前向き、発展、成功)を思う人からは、「正」(前向き、発展、成功)の言葉しかでません。「あの人はあんな事言ってるけど、本当は前向きな人なんだよ」なんてことが言われたりしますが、そんなことはありません。

後ろ向きなことを言うのは、後ろ向きなことを思っているからです。

発言は思いの産物ですから、その人の発言一つ一つをつぶさに見れば、その人が思っていることはわかるようにできているのです。
 ですから、自分の一日の表現を振りかえってみて、「負」の表現をしたなーと感じたならば、その原因であるその時の自分の心情や感情をよく点検してみてください。負の表現とは、

「文句を言う」

「怒る」

「他人のせいにする」

「責任のがれをする」

「人や物事の不足をいう」

「他人の失敗を責める」

「他人に不満をいう」

「ひとをバカにする」

「いじける、すねる」

「自分を卑下する」

などです、

「心が疲れているとき」、

「物事を憂いているとき」、

「人や物事に不足を思っているとき」、

「何かやだれかに嫉妬しているとき」、

「不安にさいなまれているとき」、

「怒りに震えているとき」、

「何かに恐れているとき」、

そんな時が、あなたの「負」が出やすいときです。それは心のクセです。それを早く発見し、「正」に変換できるようになれば、リーダーとしての心が生長していきます。

逆にそれに気付かないうちは、もしくは、気付いても直そうとしなければ、リーダーにはなれません。

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流転発展

「るてんはってん」

流転と発展を足した造語なのだそうですが、なるほどーと思う言葉です。

まず流転とは、字のごとく流れ来て、流れいくこと。

よく流行は繰り返すといいますが、これも流転です。

発展のほうは、発展。「一切は進歩発展する」というのが真理で。一見、昨日となにも変わってないように見えることやモノや、気持ち、能力といったものすべてが実は確実に発展しているという考え方。すでに発展するようにできているのが常であり、発展していないように思えたり感じたりするのであれば、それは、何かが間違っているということですね。

つまり、これをつなげると、なんとなく流れて来ては流れていっているようなこと、繰り返し行っているように見えることでも、その時、その時の人や環境によって影響され、なにかしら常に発展しているということになります。

繰り返される流行でも、全く同じものを繰り返すのではなく、その時代にあった何かが付加され、新しい価値を生み出しているということです。

付加価値というと、何か全く新しいもの、劇的なもの、革命的な利便性といったものを考えてしまいがちですが、実はありとあらゆる「ひと工夫」といったものが、積み重なって、転がって、創られているのだなーと思います。

昨日と違う今日という一日というフレーズがありますが、まさにそういうことで、できれば、今日の「ひと工夫」=付加価値の源泉を、心豊かにトッピングしていきたいものです。

そんな一日を過ごせるよう、毎日しきっています。

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奇跡です!感謝です!

中越沖地震の被災者の方々、お見舞い申し上げます。

連日報道される中越沖地震の報道の中で、こんなコメントがありました。

「奇跡です!感謝です!」

断水が続くなか、ようやく水道が通じて、嬉々として食器を洗う主婦の方が、カメラに向かって、満面の神々しい笑顔で言われた言葉です。

私はこのシーンを見たとき、なんともいえない感動と、自らの傲慢さへの羞恥の思いに揺れました。

水道をひねると当たり前のように水が出る。スイッチを入れれば電気がつく、家に帰れば家族がいて、学校もあって、電車も普通に動いていて、会社にいけば仲間がいて、相談する相手もいて、細かいことをフォローしてくれるスタッフもいて、店にはお客さんがきてくれて、スタッフも元気に働いて、ごはんもきちんと食べれて、あたたかいベットで寝る事ができて。。。

すべて当たり前と思っていて、不足に思ったり、自分のエゴや自尊心、我欲を満たすために、その一つ一つを粗末にしたり、皮肉をいたり、うまくいかないことがあれば人に責任をなすりつけたりしてしまいます。

「ありがたい」という言葉は「有難い」と書きます。

「有る」のが「難しい」ということです。

「奇跡です!感謝です!」の言葉は、私が当たり前と思っていることが、本当は「有難い」ことだということを教えてくれました。

この世に生まれたこと、今日朝無事に起きれたこと、仕事ができること、お店のスタッフが今日も元気に働けること、お客さんが来てくれること。

すべて一つ一つが、本来有るのが難しいくらいの、ありがたいことと自覚して、ひとつひとつ感謝の気持ちと誠をこめて生活していかなくては、と思います。

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ピュアさと強さと個性と魅力

今度の店は、ビオワインをはじめとしたテロワールワインを中心にしていこうということで。

改めて酒造りとか、その哲学というようなものに触れました。メルシャンにいたころは、ロバートモンダヴィのセミナーなどに参加して、フィロソフイーの重要性を実感しておりましたが、最近は少しそういう感性がなおざりにされていたような気がします。

ワインの話ではないのですが、横浜君嶋さんといろいろ話す機会があって、その時に酒の個性の話になりまして、「渡辺さん、この酒ださいんだけど、うまいんですよね。」「やっぱり個性が大事ですね。だからこの酒売りたいんですよね。」といわれました。

この言葉に私は戸惑いました。自分の中に何かが足りてないと。自分の心の空をつかれた感じで、唖然としました。

その答えは、あくる日読んだワインの雑誌「ワイナート2004年Autumunビオワイン特集」の記事の中から突如あらわれました。

「ギャラリー ラファイエット」。1986年創業のパリの老舗百貨店。

このワイン売り場責任者のブルーノクリエさんの談。

「いままでは、実体的なワインが多かった。これらは物質の所有を求める意識の低い人向けにつくられた。化学薬品や技術に頼り、物質の保存を目的に造られたワイン。」

「ワインは精神の門。ワインはぶどうという秩序ある果実の状態から、カオスになり、無我をへて、新たな秩序が誕生する。だから、人間はワインに手を加えず、寄り添って歩かなければなりません。ワインは人間より上にいて、人間を引きあげるものなのです。」

さらに

「百貨店とは死んだものの陳列ではなく、物の形をとる精神を提示する場。お客様は真理をわかっています。だから14年間業績は常に上むきです。」

そう私に足りなかったのは、「物の形をとる精神を提供する」というピュアで根本的な思いの強さ。全くないかというとそういうわけではありません。そういう理想を抱いておりますが、それは理想としてのぼんやりとおぼろげな思い。この二人のような信念の強さにかける。

ピュアであることは自分を信じること。そのピュアな気づきは、自分が編みだしたものではなく、気付かされてもの。それを信じないことは即ちその神様や宇宙の法則に従わないこと。それでは、いい仕事ができるわけがない。

ただ、ピュアであることはきびしくもある。自分のエゴと戦わなければならない。エゴは多くの場合、防御本能からくる感情。「怒り、急ぎ、憂い、悲しみ」そしてそのストレスがもたらす妥協も。

しかし、この厳しさを超えたピュアさには、強さが宿る。そしてその強さは、その個性をより際立たせて、さらに、「魅力」というご褒美をくれる。そして、その「魅力」は、その個性を人に伝える手伝いをしてくれる。

ピュアさに由来したその個性を人々がより深く味わうとき、そこに感動が興る。そして、その感動は、この世界の素晴らしさを思い出させてくれるに違いない。

いつも、どうしたら、魅力的にみえるか、どうしたら感動的になるかを考えていますが、常にその中心にピュアな原則があるかというと、、自信を持ってyesとは言いがたい。表面的な「かっこよさ」」とか「派手さ」に流れ、根本の目的と異なることをしてしまいがちです。

これはただの内向きな純朴論ではなく、外に感動を呼び起こすための原則論と考えています。

インサイドアウト。

いつも、自分の内側を見つめ、等身大の自分を受け入れ、ピュアさに強さを加え、堂々と表現していく。

あらめて、こういう思いを強くしたこのところでした。

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不徳のいたすところ

よく、何かで問題がおこったときに責任者が、「私の不徳のいたすところで、、」と言ったりします。

不注意とは違い「不徳」なわけで、誤りの原因とか、注意不足とか、そういう「こと」を謝っているわけでなく、私自身の「徳のなさ」を謝っているわけです。

「徳」という言葉自体、「徳、義、仁、礼」と論語でみられるように儒教的な概念、さらに、徳を美しいと感じる心、つまり「美徳」という言葉は普段から、なにげなく使っているように、日本に浸透している言葉です。

しかし「徳」とは何?ということになると、答えられる人は案外少ないのではないかと思います。かくゆう私もきちんと答えることはできないでしょう。

話はとびますが、何か自分がかかわる仕事や事柄で悪いことが起こったとき、このように自分の能力や人格のせいにするのは、「東洋的自己責任バイアス」なのだそうである

また行動ファイナンスの話ですが、西洋では、自らの成功を自分の能力など自己の内的要因に帰し、失敗は、運や環境など自己の外的要因にきす、自己高揚型でかつ自己防衛型のバイアスらしい。要はうまくいったら、自分の才能で、うまくいかなかったら運のせいにするということらしい。

しかし、東洋の場合はこの逆で、自分の成功は運など外的要因のおかげで、失敗は時運の能力努力のいたらなさであると考える、他者高揚、自己批判的バイアスなのだそうです。

失敗したら「不徳のいたすところで、」、成功したら「お陰様で」。ということですね。。あと世界のトヨタの「カイゼン」というのも、この東洋的自己責任バイアスの賜物でしょう。

外側に失敗の責任を負わすのでなく、内側の改善すべきを見つけ改善していく。このことは、日本人だからでしょうか、非常にしっくりする哲学だなーと思います。

会社や組織のそれは、皆で「カイゼン」すればなんとかなるのでしょうが、

それでは、「私の不徳のいたすところ」となってしまったとき、どうやって自己で「徳」のところを改善すべきなのでしょうか?どうすると、「徳」を積めるのでしょうか。

これは、深いテーマですね。よくわかりません。

ただ最近思うのはリーダー役には「徳」が必要だなと。たとえば、家族のリーダーとして、家族という集団に「徳」をもって接しないと、その家族は不和がおこったり子供がグレたりする。お店や、組織の場合も、リーダーの「徳」がないと、事故がおきたり、事件がおきたりする。まさに「不徳のいたすところ」となる。

それでは、父としての「徳」と店長としての「徳」は違うかというと違うほうが難しいわけで、これは人間としての「徳」を高めなくてはいかんと思うわけです。

それでは、どうすれば徳が積めるか?繰り返しになりますが、これはよくわかりません。

ただ、最近はなるべくエゴをださず、公正に組織全体のためになるようなことをしていこうと毎朝心に誓って生活をするようにしています。

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メンタルアカウント

メンタルアカウント=心の会計。

行動ファイナンスのフレーム効果というところにでてきた言葉。

行動ファイナンスの概念は、人間は常に経済的合理的に行動するわけではないという理論を展開しているわけですが。

フレーム効果とは、物事の見方になんらかのフレームを設けることで、その内容を結果の合理性以上に過小評価したり、過大評価したりする傾向が人間にはあるということ。

このフレームの中に、メンタルアカウント=心の会計というのがあるそうです。

たとえば、

以下の場合あなたは、チケットを買って映画を見ますか?

a)映画館に行ったとき、2000円を紛失しました。

b)映画館に2000円のチケットをもって行き、そのチケットをなくしました。

多くの人は、a)の場合はyes ,b)の場合はno だそうです。(どうでしたか?)

ここには、メンタルアカウントが働いているというのです。

損失はどちらもマイナス2000円。

しかし、a)の場合は、まだ仕訳されていない2000円のため、映画を見にきた目的のために、2000円を紛失したにもかかわらず、チケットを購入する。

b)の場合は、すでにチケット代として仕訳して(お金に名前)をつけた2000円なので、これを紛失した場合。さらに2000円を出してチケットを購入することに罪悪感を感じ、チケトの購入を躊躇するということだそうです。

見に覚えがありますね。良いか悪いかは別にして、そういう傾向が人間にはあるということです。

外食にはこのメンタルアカウントが結構効いてます。

たとえば、サラリーマンの方のランチと飲み会。

ランチは食費に仕訳されており、かなりシビア。

たとえば、780円と880円と980円の店で、いつも、780円を選択、たまに、相当の決心の末、880円を選ぶが、980円は憧れの的。100円~200円で悩み抜く。

飲み会は交際費に仕訳されており、ここはおおらか。

しかし、その日の夜、ちょっとプロジェクトがうまくすすみそうということで、同僚と一杯やりに行くと、最初は500円の焼酎が、すぐ600円の焼酎、さらに500円のデザートをすすめられれば、あっさり承諾。。。

ランチで抵抗した100-200円の支出がいとも簡単に突破されることになります。非経済合理的な行動をする自分を正当化すべく、「酔った勢い」という理由で不協和を解消しようとしますが、実は、これはメンタルアカウントで説明がつくことですね。

そう思うと、世の中色々なメンタルアカウントが効いているのがわかりおもしろいですね。

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みのもんた

みのもんたの本に

「理性はというのは我慢すればするほど鍛えられる。理性が鍛えられれば、鍛えられるほど自己をコントロールすることができるようになるので、ストレスに強い性格になる。」

とありました。

知性や理性に関することには

ほかにも、「自己コントロールができるほど、人は自由になる」というような言葉があります。

とかく、我々の業界は官能を提供するサービスなので、自己コントロールを逸しがちです。酒を飲めば酒に飲まれるし、食べ過ぎれば食べ過ぎる、色に走るものもあれば、ギャンブルに走るものもある。

酒を飲みすぎて、翌日の仕事をすっぽかしてしまったり、酒で体を崩したり、食べ過ぎて健康を害したり、色とギャンブルに金を注ぎ込んで借金を背負ったり、、

すべて、知性、理性の弱さが引き起こします。

この結果、本来神様から与えられた能力を十分に発揮できる機会を逃します。また、その無念さが残り、他を批判したり、他に不足を思ったりと、自分の幸不幸を他に依存するような思いで生活することになります。

そうなるとストレスもたまり、なるほど、他人の手の中に自分の幸不幸を預けるような生き方では、とても自由な人とは言いがたい。

反面、自己をコントロールできれば、あらゆる仕事の機会において、変な状況は起きず、仮に何かが起こったとしても己の心を平常心のまま取り組めば、そもそも授かった能力をそのまま発揮することができるので、自分の意思でその状況すらコントロールすることができる。

そして、能力を発揮できたこと、その末の自分の仕事としての結果を眺めることは大変喜ばしいことで、この喜びこそが、これは真に自由な生き方の基といえる。

みのもんたの本では、

「逆にいえば、日ごろから我慢や努力が足りない人は、自分の理性を発達させることができないので、自分を抑えれることができない。」

とあります。

最近キレやすい子供が増えているのは、これが原因。

「食べる食事の栄養の問題」とか、「ゲームのしすぎ」とか、「社会の風潮がなんたら」とかいろいろいう人がありますが、単純に「理性が足りない」のが理由。

動物は、理性がないか少ないわけなので、発情すればキレるし、エサがなくなってもキレる。つまりキレやすいのは、動物に近く退化しているということ。

表現方法は逆ですが、心理的には「ひきこもる」のも「キレる」のと同じ現象。これも理性不足が原因でしょう。

なぜそうなったか?よくわかりませんが、我慢とか、努力とかいう言葉を軽んじる人が確実に増えているからでしょう。

「自由がほしけりゃ我慢する」「ストレス対策には我慢を覚える」

一見さかさのような話ですが、そんなとこでしょうか。

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ややこしい

ある先生が、いいました。

「私の心グセは、強情なとこなんですよ。たとえば、何か仕事の予定とかってきまってるじゃないですか。毎年同じ行事とか。

そういう時ってどうしても去年と同じということにとらわれちゃうんですよ。去年と同じ去年と同じと思っているときに、たとえば、参加人数が倍になるとかいう話を聞いたりすると、パニックになっちゃうんですよね。じゃあ会場どうするの?お土産は?などなど

そもそも去年と同じであることが目的ではないのに、変化するというか予定外のことがおこると、なんかややこしくなってきたなーと思っちゃうんですよね。

これが強情ということなんですけど。」

って。こういう気持ちは私もよくしますね。

自分の予測に外れたことがおこると。なんでこんなことになるの?なんて、思っても仕方のないこと思ってみたり、みだりに人のせいにしたりして。ややこしいのやだなって。

「ややこしい」

この言葉が気になってみたんですが、漢字で書くと「嬰児(ややこ)しい」となるそうです。

「子供のように扱いにくい」という意味だそうです。ちなみに反対後は「大人しい(おとなしい)」

「ややこしいを楽しもうと思います」その先生が言っていました。

「今はぐずって手のつけられない状態でも、誠をもって対応していけば大きく育つと思うんです。そうすると、取り組んだ側も成長できると思うんですよ。ややこしい物事とおとなしい物事どちらが、人生の芸術の素材としてダイナミックだと思いますか。」

なるほどなるほど、それはいい考え方。

面倒なことになったなとか、嫌だなと思ったら、おーこれはややこしいな、ややこしいということは楽しいな、いい素材になるなーとニコっとして、取り組もう。

そんな、変化力の大事さを教えてくれるエピソードでした。

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伊勢貫@麻布十番

久しぶりの裏投稿。

裏の運用を決めかねていたのですが、ここはおもいっきり飲食店の訪問日記にしてしまおう!ということで、今日からしばらくはそういうことで。。

記念すべき第一号は、麻布十番の「伊勢貫」さん

場所は、十番からヒルズ方面へ向かって、鳥居坂下の近辺。イタリアンの2F。場所的には決していい場所とはいえません。さてどんなお店でしょう?

2Fに向かう専用階段には、大きな提灯型のオブジェ。天井から、左側面の壁には縄のれんのようにロープが施してあって、変わった雰囲気。

入り口に着くやいなや、さわやかイケメン俳優風の男性スタッフがお出迎え。「一人で予約した、、、」 「あっ渡辺様ですね。御待ちしておりました。どうぞ」と中に通される。

このイケメン君はじめ、店内にスタッフが、笑顔ながらいぶかしげに私を見る。

そう、大体いつも一人で入店なので、思いっきり警戒されてしまうのです。頭から足の先までスキャンされるように。

席数は50くらい、スタッフはキッチン6人、ホール4人の計10人。完全なオープンキッチンなので、オールスタッフが見える。

メニューは伊勢海老、黒あわび、松坂牛を中心として伊勢料理。経営母体のセブンシーズという会社自体が三重の会社だそうだ。東京には新宿に2店と二子玉川の高島屋にすしやが一件あるそうである。

飲み物は、結構コンサバ。日本酒が6品、焼酎も芋、麦、米がそれぞれ3-4種類程度で、あまりドリンクには力をいれてない感じ。ちなみにビールは恵比寿で800円。

料理は、活きの伊勢えびや、あわび、松坂牛のほかに、おすすめで季節の刺身などがある。グランド、メニューは2000円代のメニューが多いが、おすすめは1000円台全般のメニューが多い。聞くとおすすめの魚、(私は生のトリ貝を食べた)は、特に伊勢モノではなく、築地ということらしい。そもそも伊勢素材としてはじめたが、値段が高くなってしまうので、築地の通常の魚をいれて、リーズナブルにだしているのではないかと思う。

聞くと、人気のメニューはやはり魚で、肉はすこしというお客さんが圧倒的だという。伊勢料理というより、伊勢の良品もおいてある、魚割烹ダイニングといった感じ。

0031 味のほうはというとどれも良いレベル。生トリ貝も新鮮、よくでるメニューという「大アサリ」は、ハマグリよりも味に濃厚さと滋味があり、酒のアテにはもってこいの味。これは気に入った。1ピース800円でちと高いが。松坂牛の刺身は1700円で刺身4カンほど、赤身の部位で、聞いたところ「外モモ」らしい。こちらもおいしいが、うなるほどのものでもなく、「魚のほうが人気」というのも、うなづける。

0032_2 酒も種類のないなか、頼んだ 「だっさいの純米吟醸」が美味。グラスもかわっていておもしろかった。

最初はなぞの一人客に警戒していたスタッフもうちとけていろいろ話てくれた。最後に〆を、、と思っていたところ、キッチンの兄さんがすすめてくれたのが、「伊勢うどん」。

0033_1 甘辛のタレとかつおぶしに「コシのない」あたたかいうどんをからめて食べる伊勢の庶民食。

「コシのない」のはわざとで、ぶよぶよの麺が甘辛の麺に絡むのが最良ということ。

さて、そのお味は、、

ウホーとこれはうまい。。たしかにうどんのコシのなさがいい。わらびもちを甘辛だれにつけて食べているというか、、どことなく、失敗気味のやきうどんに、ウスターソースをかけているというか、、なんとなくジャンクで、でも、ほっとするなにかがある。。。

まさに「ソウルフード」という感じ。

たまたま、飲んでいた梅酒とまた良く合い。これぞ紀州のマリアージュと一人ほくそ笑んで、店を後にしました。滞在時間約1,5時間。

途中、奥の席にうっちゃんなんちゃんのうっちゃんが、ひょろひょろっと入っていきました。

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